2010/02/23 (Tue) 10:31
強い風がざわざと、木々を揺らしてる。 空を見上げると、其処には高圧線が走っていて、その揺らめく黒い線は、空を分け隔てる境界線のようだった。 高圧線はゆらゆらと、ゆらゆらと、微かにぶれるように揺れていて、その様は空の境界をぼかしている様に見えた。 びゅうびゅうと、橋の下を潜り抜ける風の音が心地よく耳に響いてる。 時に強く、時に弱く、僕は風の音色を感じていた。 僕はただなんとなく、春の陽気に誘われて、何故か気付けば川にいた。 その川はお世辞にも綺麗な川とは言えなくて、茶色ともなんともつかない色に濁っていて、ドブ川と呼ばれても仕方の無いような川で。 けれど僕はそんな汚い川だけど、なんだか嫌いになれなくて、散歩に家を出るときはいつも此処で土手に座って煙草を吹かしてた。 多分、今日気付けば此処にいたのは、いつもの習慣って奴のせいなんだと思う。 一瞬風が止んだ、すると風の音色は聴こえなくなって、けれど高圧線は相変わらずに揺れていた。 何故だか、そんな些細な事が愛しい、自分の身の回りの変化が妙に強く心に働きかけるのだ。 それはごく自然な事で、これと言って特別な事でもなくて、きっとありふれたつまらないはずの出来事なんだ。 僕は背後を振り返った。 すると其処にいるのは自転車で走り抜ける小学生、土手沿いに綺麗に植えられている桜の木を眺めながらのんびりと歩く老婆。 それから、なんだか忙しく折角の桜も眼中に無いという様子で足早に通り過ぎるウォーキングをしている中年男性。 皆は同じ場所にいながらも、それぞれが何かしらの思いを抱えながら別々の行動をとっている。 それがなんとなく可笑しくって、僕は笑った。 今はなんだか当然な事が酷く愉快でたまらないのだ、理由はわからない。 穏やかに流れる時を観測する事が、こんなに愉快な事だとは思った事は今まで一度もなかった。 僕は川に視線を戻した、丁度その時キラキラと太陽の光を反射する水面に、魚が跳ねた。 あの魚はなんと言う名前だろうか、僕にはよく分からない。 僕は『はぁ……』っと大きくため息をついた。 それは、なんとなく自分のしていることが急に馬鹿馬鹿しく思えてしまったからだ。 こんなドブ川で限られた景色を眺めていても、いつかはきっとその狭苦しさに嫌気が差してしまう。 きっとそれは部屋の中に引き篭もっている時と何ら変わりはない感覚なのだと思う。 僕のこの目が特別でない限り、この視界が無限でない限り、僕は自分を中心にした限られた世界の中の住人でしかない。 この世界で僕は何を出来るのか、考え初めて少し鬱になる。 こんなに狭い世界なのに、僕はこんな所で一人ぼっちで動いてく世界を見つめることしか出来ない。 この視界の中に、どれだけの人間がいたって、僕は自分の世界の中で孤独だ。 でも僕の視界の中にはきっと自宅や友人の家があって、そこには家族や友人がいて、僕と話してくれる誰かがいるはずで。 其処に会いに行けば皆は僕と話してくれるはずなんだ、だから全然孤独なんかじゃないはずなんだ。 孤独なのは今現在、僕が今置かれている状況に限った話でしかないんだ。 けれどこうして独りでいると、その孤独に酔いたくなるのは何故だろう。 自分は独りだと嘆いて、自分がまるで世界に関係してない様に感じて己の無力を確認して、それでは何一つ生まれることはないというのに。 僕はシャツの胸ポケットから煙草を取り出すと、口に咥え火をつけた。 大きく息を吸って長く息を吐く、それはなんだかため息にも良く似ていて、なんとなく安らいだ気持ちになる。 そんな風にして相変わらずに川眺めたりしながら喫煙を続けていると急に強い風が吹いた。 すると溜まっていた煙草の灰がその風に飛ばされて、形を保ったままの灰は土手をころころと転がりながら崩れていった。 その様を見て、僕はとことん意味の無い事を観測しているのだなと感じた。 見てみぬ振りで済む出来事を、語るに足らない出来事を、とことん馬鹿正直に思考しているのだなと感じた。 そんなこと思い始めたら自分の無駄だらけの行動に自己嫌悪が加速してきて、僕は立ち上がり帰宅を決意した。 何故なら、今僕自身に必要な問題はこんな事ではなく、他に嫌になるほど溢れているのだから。 僕が考えなくてはいけないのはそれであって、こんな取り止めの無い自然の描写などではないんだ。 社会不適合者な自分自身の身の振り方、常識の認識。 普通を普通にこなすという異常、僕にはこれらが必要な事項であってそれ以外の問題は思考するべきではないのだ。 それ以外の思考はただの現実逃避としか言い様が無い、それ以上にまともな表現なんて無い。 なんて情けない、現実逃避してその殻の中で自分に酔って生きるだなんてなんて醜い。 僕はそんなことを求めていたりはしない、然し僕は普通であることも望んでいないのだ。 だから僕はこんな狭間にいて揺らいでる、それはまるでこの視界に映る高圧線の様に。 曖昧に揺らぐ線の上を、どちらにも脚をつくことなく歩いてる、まるで綱渡りのように。 燃え尽きた煙草の火が手に落ちる、然しそんなことはどうでもいい。 なんだか急に思考が僕の持つ本質に傾き始めてきた、もう景色なんかどうでもいい、見えない、見えない。 思考がどんどん理路整然と、混沌としていた思考がカテゴライズされて平行に並ぶ。 そして不要な思考のスイッチがどんどんOFFにされていく。 今まで感じていた風、光、熱、五感が衰退を始めて思考が加速、自分が今思考するべき内容へシフトする。 僕は今何をしているのか、『A.現実逃避』 僕は今何をするべきなのか、『A.社会復帰』 答えがそうして徐々に見えてくると目に見えないプレッシャーが加速して、自分で自分を追い込み始める。 今年で20歳、無職でいて良いわけが無いだろう。 精神を病んでいる? そんなものは言い訳だ、お前が堕落しているだけだ。 お前は今何をしている? 散歩なんてしている場合じゃないだろう? 感傷に浸って風景なんかの描写を脳内で巡らせている場合じゃない、そんな無駄な思考に浸ることは許されない。 お前にそんな感傷に浸る権利は無い、お前が今するべきなのは職について自立する事だ。 世の中は金、金、金、金が全て。 思考が、パンクして、脳が、バグに、犯される。 Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa――。 思考が刹那、停止した。 「あっ……、僕は何を考えていた? 痛っ……」 僕は今何を考えていた? 何故煙草の火が手に落ちているのに熱さを感じなかった? 右手の甲を見れば火傷の後が残っているだけで落ちたはずの煙草の火は既に風に飛ばされたようで何処にも見当たらなかった。 記憶を遡ろう、失われた一瞬の記憶を取り戻すために。 まず僕は暖かかったので散歩に出てきて、風の音を感じて、水面の煌きを眺め、背後を振り返って人を眺めて微笑んで、視線を戻したら魚が跳ねた。 そして僕は何を考えていた? 一瞬前の記憶なのに、何故かどんなに考えても思い出したいその部分だけが靄が掛かったようにぼやけてピントが合わない。 「まぁ、いいか」 僕はいくら思い出そうとしても思い出せない記憶を取り戻す事を諦めた。 思い出せないとは言え一瞬の事、そんな一瞬の記憶が僕の今後を左右するほどの重要度があるとは思えない。 「そう言えば何で僕、立ってるんだろう?」 どうも立ち上がった記憶も無いらしいが、僕はそれも気にはせずに座りなおす事にする。 そして火傷を左手の指で触れ、次に舌で撫でる。 今此処にあるのは失われた記憶と痛みだけ、この一瞬に何があったのかは然して問題ではないけれど、この火傷は暫く跡が残りそうなのが気がかりだ。 と、僕がそんなことを思っていると背後の方で叫び声が聞こえた。 「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! 畜生! なんだこのライターは! 全く役にたたねぇ!!」 背後を振り返ってその声の主を見てみればどうやら中年男性の様だ、その風貌はみすぼらしく、恐らくホームレスかなんかだろうと思われる。 どうもその叫び声からして煙草を吸おうとしているのに火がつかないらしい。 まあこの風が吹き抜ける土手では普通の100円ライターでは火の付きが悪くても仕方ない。 「ったくなんなんだよ! このライター喧嘩売ってんのか!? この野郎!」 そして僕が暫くその姿を眺めているとその中年男性はライターを川に放ってしまった。 「あーあ……」 僕はそのライターの軌跡を眺めながら思わず呟いた。 再びホームレスのような風体のその中年男性に目を向ければ、やはり煙草が吸えない事が悔しいのか地団駄を踏んでいた。 僕にはその姿がなんとも滑稽に見えたのでつい声を掛けてしまった。 「あのー……、ライターならありますけど使いますか……?」 僕は自分の胸ポケットからライターを取り出すとその中年男性に差し出した。 多分僕のライターなら問題ないだろう、僕のライターは先ほど投げられたライター同様100円ライターだがターボライターだ。 「あぁ? おぉ、兄ちゃん気が利くね」 中年男性は一瞬僕に睨みを利かせたがライターを差し出す手を見てすぐに笑顔になり「すまねぇな」なんて呟きながら僕のライターを使って煙草に火をつけすぐさま一服。 「ぷっはぁ~、やっぱ煙草はうめぇなぁ、何十分も苦労した甲斐があったってもんだぜ、ありがとな恩に着るぜ」 中年男性はそう呟いて僕にライターを返却すると、そのまま去る事は無く、何故か僕の隣に腰掛けて僕に話し掛けてきた。 「俺は宗治、兄ちゃんの名前はなんていうんだ? まぁいいか、そんなことはどうでもいい。 兄ちゃんまだ二十歳ぐれぇだろ? そんな若いのに川辺で日向ぼっこたぁ老けた趣味してんなぁ」 んー、と僕はライターを貸してしまったのは失敗だったかと少々悩んだ。 どうも悪い人ではなさそうだが、僕はどうにもこういう初対面の人間と話すのが苦手だ。 しかもこの人は妙に馴れ馴れしいときたもんだ、僕の最も苦手とするタイプ。 だが然し、この人の馴れ馴れしさはなんだか不快なものじゃないと感じられて、なんとなく僕は返事をしてしまう。 「あー、まぁ……、そうですね丁度今年で二十歳です。 後これは日向ぼっこって言うか休憩って感じで、散歩するのが趣味なんです」 なんともぎこちない返事ではあったが、宗治さんとやらはそんなことを気にする様子も見せずに声を掛けてくる。 「散歩が趣味ねぇ、まったく親父くせぇことしてんなぁ。 まぁ俺も散歩は嫌いじゃねぇ、ただし俺は本当の親父だがな、ははっ!」 何故だろうか、この人は失礼な物言いをしているのに不思議と受け入れられるのは。 「とりあえず宗治さんって呼ばせてもらってもいいですかね?」 「あぁ、かまわねぇ、好きに呼んでくれ」 「あの……、宗治さんは何故僕の隣に……?」 然し疑問はある、何故この人は僕の隣で好き勝手喋っているのか。 不快ではないとは言えなんとなく不信感を抱いてしまうのは当然の事だといえるだろう。 「ライター借りただろ? まぁこれもなんかの縁かと思ってな。 んでどんな奴がライターかしてくれたかと思って面みてみりゃいい年した兄ちゃんじゃねぇか。 こりゃ話し掛けたくもなるだろう、年寄りは若い奴と話したがるもんなんだよ」 だが年寄りと入っても宗治さんはまだそう括れるほどに年老いてはいないだろうと思う。 多分予想では40~50歳位だろうか、とそう思ったところで「まぁ年寄りと括れない事も無いか」とか認めてしまった。 「でも、初めてあった人間とそんな自然に話せるものじゃないですよ。 しかも倍くらい年の違う奴になんて普通話し掛けないと思いますよ? だって怪しいじゃないですか、最近じゃ若い奴が親父狩りだなんていってる物騒なご時世です。 独りでこんな川辺で座ってる僕なんてかなりやばい奴っぽいじゃないですか? 普通の奴はこんな所じゃなくもっとまともな所へ遊びに行くもんです」 とりあえず僕は感じている不信感からなのか、ついそんな突っぱねるような返事をしてしまう。 でもそれは事実だ、というかこの場合僕の方が不審人物だろう、相手を疑うような立場ではないのかもしれない。 「でも兄ちゃんはそんな物騒な輩じゃねぇだろ? 面みりゃわかる。 兄ちゃんみたいな面してこんな所で昼間っから川辺にいるような奴にそんな根性はねぇ、これははっきりと言える。 確かにやばい奴等に似た性質は持ってるだろうがな、どちらかと言えばそういうもの持ってても表に出せねぇタイプだな、内に篭る感じだ」 しかし宗治さんは僕のそんな言葉も跳ね除けて精神分析なんかを始められてしまった。 初対面の人間にそんなことをされれば思わず「違う」なんて言ってしまいたくなる所だけれど、なんだか妙に的を射ている気がして何もいえなくなってしまった。 「どうだ? 結構当ってると思うんだがどうかね? 俺は頭は悪いが人を見る目だけはあるつもりだ、これだけが唯一俺の誇れる所だな」 「えぇ、大体当ってる気がします……」 僕はその言葉の前に返す言葉無く、ただ認めるしかなかった。 そして僕がそんな言葉を返した所為だろうか、宗治さんは更なる分析を行おうとする。 宗治さんは先ほどまでのあっけらかんとした表情から打って変わって真面目な表情を作ると、色素の薄い瞳で僕に射抜くような視線を向けた。 「そうだなぁ、此処は一つ兄ちゃんの事を細かく分析してやろう。 兄ちゃんは今大きな問題を抱えているな、それは自分自身嫌になるくらい気付いているけど気付かない振りをしている。 その問題ってのは多分生きるのに関わってくる問題だな、恐らく金に絡んでくる所だから就職だとかんな事に悩んでるんだろうかね? それで兄ちゃんは今、その問題に決着をつけるために決断を焦ってる。 その問題にはまだ猶予があるはずだ、それは恐らく後数年だな、たぶんこれにも兄ちゃんは気付いてるはずだ。 けどやっぱりこれにも気付かない振りをして、自分自身にどんどんプレッシャーをかけてる、なんとなく自虐っぽい域に入っちまってるかもな 兄ちゃんは自分自身に厳しすぎるのかもしれねぇな、なんだか妙に義務的に考えすぎる部分があるんだよなぁ、もっと緩く考えればいいのに意地を張ってるな。 今時の兄ちゃん位の年の奴ってのはもっとだらけてるもんだよ、それがフリーターだろうが大学生だろうが、もっと気楽にやってるもんさ。 多分兄ちゃんはフリーターかなんかだろう、もしくは働いていないだろうな。 だからと言って其処に学生と無職の奴の間に、兄ちゃんが思ってるほどでけぇ溝はねぇんだよ。 なんつーかそれは既に一緒くたに考えられる問題ではないんだよな、方向が違うんだよ。 無職でふらついてようが学生やってようが、要は自分の好きなことやってるってこった。 とにかくもっと兄ちゃんか気楽になれ、肩の力抜いて思いっきり現状に甘えてみるといい、そのうち嫌でも何か見えてくるさ」 そして宗治さんは明朗に語った、到底知りえぬ僕の現状までを語った。 まだであって間もない筈なのに、何故こんなにも僕の事を知っているのだろうかと。 気持ち悪いほどに当っているように感じられて吐き気がしそうだった、然し何故だろうかやはりこの人の言葉は自然と胸に収まる気がする。 なんとなく反論の出来ない、憎めない、そんな物言いだ。 僕はあまりにも的を射すぎた言葉に声を失った。 こんな時、どんな言葉を返していいのか、僕にはよく解らなかった。 「まぁいきなりこんなこと言われても言葉に困るわな。 俺はこれでも昔は名の知れた占い師でな、ちったぁ裕福な暮らししてたもんさ。 だが今じゃ浮浪者同然な生活だよ、理由は客の不幸な未来を見ちまったのさ、それが全ての不幸の始まりだ。 確かそれはそいつが交通事故に遭うってな感じの内容だったな、んで見事当っちまってあとで散々喚かれてな。 不幸を呼ぶ占い師だのなんだのと散々罵られた挙句、客はみんな離れちまった。 だが俺にはそれ以外何のとりえも無くってな、客が離れてからはまともな職につくことも出来なくてなぁ。 だから今じゃこうしてその辺ぶらついて、兄ちゃんみたいな恩を受けた奴見つけては、ちょっとしたアドバイスをしてやったりしてる程度が精一杯だ。 もちろん金なんか取る気はねぇ、俺はもう終わっちまった占い師だし、これは単なる恩返しさ。 こんないい加減な占いされても迷惑だとは思うがな、やっぱり他人の事をほっとけねぇだよ。 俺はもう兄ちゃんの未来が見えてるが、俺はあえてそれを語らない。 未来なんてのは奇麗事じゃねぇが必ずしも確定した物じゃねぇ、その人がどう生きていくかで変化しつづけるもんだ。 あー、なんかくだらねぇ話ししちまったな、まぁ戯言だと思って聞き流してくれ。 んなわけでもう一回火、貸してもらえねぇか?」 僕は更に言葉に悩んだ。 そしてその結果、宗治さんの言葉を素直に受け取ってそれに関しては何もいわない事に決めた。 なんだか此処で反論するのは違う気がするし、言葉を受け入れるのが一番いい気がしたから、"宗治さんの占い"を信じる信じないは別にして受け止める事にした。 そして宗治さんの過去についても、変に追求するのは良くない気がしたのであえて聞こうとも思わなかった。 だって僕等はこの場所を去れば二度と合うこともないだろう関係なのだ、興味本位による無駄な詮索は煩わしいだけだ。 「はい、どうぞ」 だから僕はあえて言葉を紡ぐ事は無く、なんでもなかったかのように振る舞った。 なんとなく、そんなことは望まれていない気がしたのだ。 「ありがとよ、何度もわりぃねぇ」 このやり取りで、宗治さんの目がそう語っていた。 自分自身で口にしていたように何も聞かなくていい、そのまま聞き流せと。 僕は宗治さんにつられて煙草を取り出して口に咥える。 「これも礼だ、火、付けてやるよ」 「どうも、すいません」 僕は差し出された自分のライターの火で煙草に火をつけ、差し出されたライターを受け取りポケットにしまって一服。 やはり先ほどと同様に大きく吸い込んでため息のように煙を吐き出す。 なんとなくこの一服で今までの会話の流れがリセットされたような気がしたのは、多分気のせいではない。 「そういやぁさ、俺はハイライト吸ってるんだけどよ、兄ちゃんはピース吸ってるのな。 同じ親父煙草だが兄ちゃんが吸うにはその煙草はまだ早い、もっと老けてから吸った方が良い。 まぁ若いのに親父煙草ってのも悪くないかもしれねぇが、回りには若くして『親父』とか呼ばれるしあんまり愉快なもんじゃねぇなぁありゃ。 実の所俺も昔っからハイライトでな、散々酷い目にあってきたもんでなぁ」 その予想通り、宗治さんはさっきの事なんて無かったかのように別の話題を振ってきた。 「でもまぁ美味い物は美味いんですし、他の煙草を吸う気にはなれません。 煙草なんてカッコで吸うもんじゃないですよ、そんなのは中学生どまりでよしてくれって感じですし」 「そうだな、ちげぇねぇ」 だから僕もそれに乗った、初対面だけれど阿吽の呼吸。 そして暫くの時が経って、互いに煙草を吸い終わった頃、宗治さんは別れを告げた。 「それじゃぁ俺はそろそろ行くことにするわ、兄ちゃん元気でな。 多分この先兄ちゃんは苦労するはずだ、だけどその先にはきっと真っ当な道が広がってる。 どんなに誤りながら進んでも、それは兄ちゃんにとって正解な筈だから、気にせず誤れ。 まーあれだ、兄ちゃんは人より酷く効率が悪く、回り道をしなきゃならんてこったな。 だがその分、兄ちゃんは他人よりも少しだけ強い心をもてるはずだ。 今は回り道でも、他の奴等に追いついた時に誇ってやれ、兄ちゃんが今してることは恥ずかしがるような事じゃない、それだけ立派な事だ。 それじゃぁな、また縁があったら会おう」 僕はそんな言葉に、なんとも言えずただ一言「はい……」と答えて、しょぼしょぼと歩いていく宗治さん背中を見送った。 そして僕は遠ざかる背中に大きな声でこう叫んだ。 「ありがとうございました!」 よくわからないけど、今はこの言葉以外に何一つかける言葉が思いつかなかった。 まるで浮浪者みたいな格好で、自称占い師の不審人物の言葉はなんとも言えずに心に響くものがあった。 僕が先ほど忘却した時の内容を宗治さんは示していてくれたのかもしれない。 それをさっきからずっと感じていた。 僕は今誤りだらけの道を歩んでいるのかもしれない、そしてそれを間違いだと思いつづける自分がいることを知っていた。 だけど宗治さんの言葉を聞いていたらなんとなく、誤りだらけでもいい気がした。 いつかその場所へ辿り着けるのなら、いくらでも誤ってやろうと思った。 初対面の浮浪者の言葉だけど、あの人はある意味本物だったといえるかもしれない。 認められない人間ばかりしかいない中で、あんな人だからこそ認められたのかもしれない、感じるものがあったのかもしれない。 だから僕は立ち上がって、もう一度その背中に向かって叫んだ。 「ありがとうございました!」 すると宗治さんはこちらを振り向くことなく高々と天に握りこぶしを掲げて、そのまま右に手を下ろすと水平になった所で親指を立てた。 そして僕はその姿を暫くの間ぼーっと見送っていた。 僕は、失われた時間、リセットされた時間を、あの人の言葉によって解決できたような気がした。 全然辻褄はあってない気がするけど、多分、僕は少しだけ前進する事ができるような気がした。
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